“ドイツの森に鳥居を建てた11日間”

“ドイツの森に鳥居を建てた11日間”

text: MotohiroSUGITA

カンナの技を磨くことで日本大工の技術を保存・発展させている削ろう会(会長 杉村幸次郎さん/愛知県)が、2007年7月、ドイツのニーダーザクセン州ミュッチンゲンにある研修施設に鳥居を建立しました。

参加者はドイツ、イギリス、フランス、チェコ、そして日本の5カ国の伝統的手仕事による職人約40名。そんな彼らが自国の枠に引きこもることなく、国を超えて交流しながら自らの技を自慢し、学び合う場として、鳥居建立の意義は深い。彼らは、日本の鳥居を、自らも意識しなければ廃れてしまうかもしれない手業を通して、過去と未来、そして世界をつなぐ架け橋と考えているようです。
トランローグは、ドイツにおける鳥居建立の全行程を密着取材し、ムービー版と電子書籍版の2つのコンテンツでリポートしました。

リポートの完全版は、ムービー版と電子書籍版として発売しています。こちらからご確認ください。

ここでは、鳥居建立前の日本における準備編。ドイツ到着から鳥居建立、建立後の職人たちの交流までの11日間のハイライト。そしてリポートの一部として1日目の様子。本プロジェクトから得た気づきを記した、リポートのあとがきをご紹介します。

日本での準備編 〜 模型をもとに検討

2007年5月19日(日)、愛知県甚目寺町八坂神社の大祭、献灯の翌日。20mの山竿は、杉村親方、雨宮さん(山梨県)、ドイツ削ろう会のアクセルさんにより、190年ぶりに新調。山竿の新調には、マサカリによる製材からチョウナ、カンナによる仕上げまで、すべて手仕事で10日間掛かった。

山竿_01
山竿_05
山竿_02
山竿_03
山竿_04
鳥居の模型

同日、杉村親方の工房にて、ドイツに建立する鳥居の模型を前に、一週間という限られた期間で、文化的背景の異なる職人同士、技を究めた鳥居を完成させるための検討が行われました。ドイツの現場は、甘粕親方(神奈川県)が仕切ります。

職人による鳥居の検討_01
職人による鳥居の検討_02

11日間のハイライト 〜 ドイツの森に鳥居を建てる

2007年7月、削ろう会とドイツ削ろう会(リーダー ハネス・シュネルさん)ならびにヨーロッパ各国の職人が一堂に会し、ドイツ・ニーダーザクセン州ミュッチンゲンにあるイベント施設に鳥居を建立しました。 この場所を選んだのは、美しく気持ちの良い森があり、大勢で食事・宿泊ができて、たくさんの子どもたちにも見てもらえるから。

参加者は、ドイツ人58名、チェコ人8名、フランス人3名、スウェーデン人1名、デンマーク人1名、ノルウェー人1名、スコットランド人1名、そして日本人15名の合計8カ国88名。(ドイツ削ろう会への取材より)

彼らは鳥居を「日本文化の象徴であるばかりでなく、世界中どこでも飛んで行くことのできる職人(鳥)が、そこに止まり交流する(居る)場であり、日本とヨーロッパの職人たちのシンボルにしたい」と考えています。

果たして鳥居は、機械を使わず昔ながらの手仕事で、どのようにつくられ、立ち上げられたのか?

ハイライトをご覧ください。

鳥居づくり

クレーン/建前

建前/Party

リポート1日目 〜 日本ヨーロッパ8カ国の職人が古来の手仕事でドイツの森に鳥居を建てる

7/5(木)成田:曇り。フランクフルト:曇り、気温16度。ベルリン:夕立。宿泊地ヒッツザッカー:晴れ

削ろう会のメンバー8名とその家族、スタッフの総勢11名は、午前7時成田第一ターミナル・ルフトハンザ・チェックインカウンター前に集合した。日本とヨーロッパの超一級の手技を持つ職人が団結し、ドイツの森に鳥居を建立するための大工道具を機内に預けるには、検査に時間が掛かるため、誰よりも早くチェックインしたかったのだ。

総勢11名のうちの1人は、この私だ。私は、住関連の商品開発やPRを行うデザイナーであり、同じく住関連のメディア(取材・編集・記事発表)とワークショップ(体験教室)活動を行っている。今回は、メディア活動の一環としてジャーナリストとして同行させていただいた。ジャーナリスト歴は、ちょうど10年。しかし、読者には、ジャーナリストという立場でリポートが書かれた、という前提で読んでいただくよりも、住関連の仕事に広く浅く係わりながら、土日は小さな山小屋をセルフビルドしている、日本古来の家づくりを愛する物好きが、居ても立っても居られず、ドイツまで同行取材を志願した、とお考えいただいたほうが、間違いない。日本とヨーロッパの職人史上の快挙であり、見る者皆を虜にするくらい楽しいプロジェクトではあるが、それは政治経済的な歴史とは無縁で、何よりも私自身の知的好奇心と本能あるいは筋肉的欲求を満たすための取材だからだ。
一体何のために文化も宗教的背景も異なる職人たちが集まって鳥居を建立しようとしているのか。木材の伐採から始まり、エンジンやモーターを動力とする機械を一切使わず、すべて手道具で仕上げる手仕事は、今時の大工には過酷で未知の世界だ。このプロジェクトが、とある地球の片隅で行われるイリュージョンでないことを自分の目で確かめるまで、私は半信半疑だ。

荷物の中身は、マサカリ(鉞)やオノ(斧)など重量のある危険物ばかりである。
プロジェクトにおける連絡の要となっている日本とドイツの文化交流を支援する(社)日本カール・デュイスベルク協会の坂本専務からルフトハンザ日本支社長を通じて参加メンバーの機内預かり荷物は一人当たり30kg。規定の20kgに10kgのボーナスをいただいた。
なお、坂本さんの計らいでメンバー各人には、旅行中空港内で荷物を没収されることのないよう、旅の目的が明記された証明書が配られた。私の名前が明記された英独併記の証明書を手に取り、改めてプロジェクトの特異性を感じ、緊張した。
本プロジェクトにおいては、ジャーナリストといえども大工道具30kgを運ばなければならない。その道具箱たるや、2年前から取材している雨宮さんの手作りによる木製の道具箱にゴムチューブを巻いて固定したもので、見るからに危険物そのものだ。マサカリやオノの柄が見え隠れしているではないか。神様、セキュリティ様、どうぞ私たちを無事ドイツの森までお導きください。

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チェックインする雨宮さんと機内預かり危険物

チェックイン時に一人個室に連れ込まれることは無かったものの、全員で保安検査を受けるため、別の場所へと移動させられた。もし、私たちの刃物で溢れかえった荷物を、保安検査を受けずにチェックインカウンターよりベルトコンベアでセキュリティに流してしまったら。考えただけでも恐ろしい。空港内はエマージェンシー状態になるからだ。
無事検査を終えると一行は出国審査を通って搭乗した。
成田からフランクフルトを経由し、ベルリンに到着するまでの約15時間のフライトだった。

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夕立のベルリン空港

ベルリンに着くとドイツ人の若者たちが私たちを出迎えてくれた。
削ろう会会長で宮大工の杉村さんのもとで修行したハネスと、プロジェクトの棟梁を務める数奇屋大工の甘粕さんのもとで修行したマーク、それに彼らの仲間で今回メンバーの中で最も長身のエリックと、日本から一足先に現地入りした飛騨の家具職人、山内君の4人だ。
私たちが入国ゲートをくぐるのを見守りながら満面の笑顔で手を振る彼らは、見るからに今時の若者らしく屈託の無い表情で心から私たちの到着を歓迎してくれた。そんな彼らを見ていると、日本では戦争中から神経質なテーマとして取り上げられることの多い鳥居について、彼らは何を考え、どんな想いを抱いているのだろうか、と疑問を感じ、多少の不安を覚えた。

私たちは2台の車に分乗し、3時間を予定している道中、給油と買い物、トイレを兼ねて一度休憩しただけで、ただひたすら宿泊地であるハンブルク方面、エルベ川のほとり、ニーダーザクセン州ヒッツザッカーを目指した。
北緯53度の高緯度でサマータイムのせいか、夜10時を過ぎても明るい田園風景を、皆すっかり見飽きて車内でぐったりした頃、ようやく宿泊地に到着した。所要時間はおよそ4時間ほどだったか。参考までに日本最北の稚内でも北緯45度だ。
道中いくつもの小さな町を走り過ぎたが、人一人歩いていない。時刻のせいか、あるいは、やはりここが私の夢の世界、幻だからか。

長旅で休憩らしい休憩をしていなかった私たちは、すぐに夕食(夜食?)をいただいた。私たちの到着を待っていたドイツの職人たちは、私たちが食事している下屋(母屋の軒下)の外、焚き火を囲んでくつろいでいた。彼らも緊張していたのか疲れていたのか、無口だった。 
夕食はグリーンカレーだ。皆黙々と食事していたので、少し雰囲気を変えたくなった私は、近くにいた男性に話し掛けた。
「このグリーンカレーは美味しいですね。どなたが作られたのですか?」と尋ねると、男性は「彼女は、今は夜遅いので子供を寝かせるために帰宅してここに居ないが、料理がとても上手なんだ」とゆっくりと優しい口調で答えてくれた。
この男性こそ、このキャンプサイトの家主で革細工職人のヨギさんだった。

“ドイツの森に鳥居を建てた11日間”
ヨギさん(手前)の屋敷内、下屋で夕食

成田を飛び立って約21時間後、現地時刻の11時を回って疲れ切った私たちは、二手に分かれて宿舎へと移動した。
一方は下屋の脇、長屋の角の2階、ツタに覆われ、青空階段(屋外階段)のある、とてもロマンティックな雰囲気だった。そこに宮大工の雨宮さん、佐藤さん、谷口君、甘粕棟梁のお弟子さんの木村君が宿泊した。もう一方は歩いて2、3分の場所にあるヴァケーションハウスと呼ばれる、日本の民宿のような施設だ。私は、甘粕棟梁ご夫妻、宮大工の國分さん、菱田君と植木君、インテリアデザイナーで佐藤さんのアシスタントを勤める女性の大鶴さんと一緒にヴァケーションハウスに案内された。今日私たちを迎えに来てくれた山内君は、マークと一緒に皆とは別の部屋に宿泊していた。

“ドイツの森に鳥居を建てた11日間”
ロマンティックなドミトリー

オーナーのご婦人が私たちを玄関に出迎えてくれた。
2階へ上がると、キッチンからシャワー、トイレ、バルコニーまでとても清潔な空間だった。聞けば改装したばかりとのこと。また、下着以外は洗濯してくれる、というから機内持ち込み手荷物だけで約2週間を過ごさなければならない私にとっては、耳を疑うほど嬉しかった。雨宮さんたちが宿泊する、ワンルームに簡易ベッドが並べられたキャンプのコテージと比較するとあまりにもラグジュアリーだ。この格差は、地位、年齢、性別・・・そして偶然に由来するようだ。
私たちは、4部屋に分かれたが、2部屋がドアを隔てて続いている部屋に、私と國分さん、菱田君と植木君が滞在することになった。順番にシャワーを浴び、長旅で緊張した神経を休めるためにビールをいただき、皆で床についたのは、成田を出発してほぼ1日経った深夜1時過ぎだった。

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ヴァケーションハウス前の菱田君(右)と植木君(左)

リポートあとがき 〜 手仕事の楽しみが伝統文化と自然環境を保全する

私が生まれた翌年に東京オリンピックが開催され、小学1年生の時、大阪万博を観覧した。大学を卒業して就職すると直ぐにバブル経済の恩恵を受け、1年で給料は倍増した。
私が生まれ育ち社会人となるまでの日本は、まさに経済的な成熟期として常にお祭り気分の中にあった、といっても大袈裟ではないだろう。
そんな私の頭の中では、常に科学技術は進歩して経済は成長し続けるもの、という楽観的すぎる社会通念と、未来永劫に成長・発展するものなど何1つない、という直観的かつ冷静な思いの間でせめぎ合いを繰り返していた。
そして、バブル経済の渦中で私は独立を決意し、自分と社会にとって必要で変わらない価値あるものを探す旅に出た。

デザイナーの私にとってこの世の中で最も醜いもの。それは、美しくない街並み、景観である。
日本の街並みや景観が美しくないと書けば、「日本ほど衛生的で美しい街並みはない」とお叱しかりをいただくことになる。その考え方を否定するつもりは全くない。
しかし、日本の街並みに、何か物足りなさを感じることがあるのは、私だけではない筈だ。
どこか「心がない」「情がない」と思うことがないか? 書き換えれば「考えが浅い」と感じることがある。

例えば、海外から輸入された資源からつくられた新建材を使って建物を建て続けているようなものだ。いつなくなるか分からない材料を使えば、何れメンテナンスできなくなる。その場しのぎのリフォームができればまだ良いが、リフォームするより建て替えたほうが安心で経済的、といって解体となれば、それほど無駄なことはない。近年までに建てられた家屋の耐用年数が25年程度と聞くたびに、暗い気分にさせられる。さらに、超高層ビルや巨大橋梁に至っては、将来に亘って維持メンテナンスし続ける技術や資本が用意されているのか、と疑ってしまう。

ドイツの森に鳥居を建てたことの意義は、数え上げれば切りがない。
ドイツの森からいただいた木を使ってドイツの森に、日本人にもヨーロッパ人にとっても、まさに精神的支柱を立ち上げたのだ。その土地から何も奪わず、しかもゴミとなる何物も残さずにつくり上げたのだ。
大袈裟に書けば、太古の時代から技術を持った職人は、ある時は国を越えて旅をしながら、その土地にある材料を生かしながら物づくりをするのが慣わしだった。これは日本において、おそらく100年程前までは当たり前のものづくりの在り方だったに違いない。伝統文化を伝承しながら技を研き、自然と共存してきたのだ。異国の職人同士が交流することも自然なことだったに違いない。

ところで、伝統文化と自然環境を守りながら、その技を持った職人同士の交流が希薄になったのは、物づくりが機械化されてからではないだろうか?
機械、特にコンピュータによってプログラミングが可能な工作技術は、手技の熟練を必要とせず、世界共通のマニュアルによる物づくりを可能にした。もっとも高度な熟練によってしか操ることのできない工作技術があることも承知している。
さらに、機械化による物づくりは、仕事の分業化やブラック・ボックス化、そしてスピード化を促した。
機械は、圧倒的なスピードで製材、加工してしまう。物づくりの楽しみの量も質も半減してしまうのではなかろうか。何よりも恐ろしいのは、このスピードに裏打ちされた便利さ、効率が、伝統文化や自然環境のことなど、顧みることを忘れさせてしまったことだ。
反面、手仕事による物づくりでは、道具のつくり方や使い方、メンテナンス方法に至るまで、伝統の技術を受け継いでいく。また、手仕事のペースは、樹木が生長するサイクルに合わせた物づくりのサイクルとも合致するため、自ずと自然環境の保全を意識せざるを得ない。

このような、ゆっくりと確かな手仕事を楽しむことができれば、伝統文化を継承し、自然と共存することに至上の価値と無上の喜びを感じることができるに違いない。
手仕事による伝統技術の伝承は、いままでにも各所で取り組まれてきた。しかし、伝統文化と自然環境の保全を1つの不可分なシステムとして再構築する取組みは、未だ知らない。
今回ドイツの森に鳥居を建てたプロジェクトについてより多くの方々に知っていただき、その背景に隠れている「伝統文化と自然環境の一体的な保全の必要性と可能性」を感じ取っていただきたい。また、「文化遺産」と「自然遺産」に分けられるユネスコの世界遺産の中で、両者を分けることのできない「複合遺産」と呼ばれる分類があるように、世界中の都市が伝統文化と自然環境が融合した街並となることを願っている。

またいつの日か、機会をいただければ、さらに資料の充実した改訂版を印刷・出版したいと願っている。その際は、改めて皆様にご協力をお願いしたい。

極めて偉大な鳥居建立プロジェクトに同行取材を許可してくれた、杉村会長を代表とする削ろう会。そしてハネスを代表とするドイツ削ろう会。さらに渡航の手配などにご尽力いただいた、当時(社)日本カール・デュイスベルク協会の専務を務められた坂本さんには、この場を借りてお礼を申し上げたい。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「小さな削ろう会 in一ノ瀬」開催間近の2010年7月 猛暑日の東京にて
杉田基博